名前なんてなくていい

好きなことの話

魔法でお札に変わってしまったチケットと、手帳に消せるボールペンを使うようになった話

はじめまして。

真っ白の手帳をながめて数か月、先日またひとつ、払い戻し手続きを終えました。

 

 

 

ある若手俳優を応援しはじめてたった1年と3か月程度です。

劇場に通うのは身内の趣味に付き合って年にせいぜい3回ほど。そんな私が初めて演者を好きになって、地方の人間なのに月2ペースで首都圏に飛んで、一体何がどうしてこうなったのかと友人と大笑いしたのはいつだったでしょう。

 

バイトを増やしに増やして、興行1つで何枚も何枚もチケットを手配できるようになったのが昨年秋。

日常的にチケッティングをしておられる方はお分かりかもしれませんが、

秋以降の先行で確保していた公演はほとんどすべて、COVID-19感染拡大防止の観点から上演自粛・中止となりました。なりました、と言いながらも現在進行形です。

就活前の最後の半年、いやサマーインターンは検討するけど今のうちに、自由に使えるお金でたくさん現場に行こう、たくさん飛行機と夜行バスに乗ろう。そう思っていた矢先の、でした。

 

エントリを書くにあたって正確な数を数えようとしてはみましたが、涙が出そうになって途中でやめました。人体にそなわっている指の総数は超えていました。

 

 

 

チケットの支払いには基本クレジットカードを使うので、発券済みのものは払い戻しで現金になります。臨時収入みたいでちょっと笑ってしまって、4月まではまだ7月の公演のチケットを買い足したりしていました。

 

最近はもう発券日前に中止が決まって、カードに直接返金ばかり。

これの何が悲しいって、ほんとうに何も手元に残らないんですよね。

 

いちど発券すれば写真が撮れたり席だけでも分かったり、そのチケットが使えないことを悲しめる素地がありました。供養とかとおんなじ感じ。悲しまないとちゃんと顔を上げられないって言うじゃないですか。

 

他方、2か月前の明細に残っている数字ぶん、来月の明細にマイナスがつくだけ。

こちらはなんの手続きも必要なく、何日のマチネだったかソワレだったかの何席を持っていたのか記憶に怪しいまま、ただ無になって終わります。

 

中止の発表にも、いつまでも衝撃的ではいられない。ありていにはまあ慣れてしまって、新鮮に落ち込んでいた3月4月の私がうらやましい。

好きな人に会いに好きな場所に行く機会を奪われるんだからもっと唇かみしめて悲しめるんじゃないの、と責める声も脳内に響くんですよね。仕方ないと分かっているのであんまり傷ついていない自分がちょっと嫌です。

 

 

 

現場がある時は何日も前から心と見た目の準備もして、(誰もがそうだと思いますが)特別な日として扱っていたので、手帳に書くのに現場予定専用の色を決めていたり、2泊とかなら行程も書いてみたり、書き間違えたときの修正テープの悪目立ちに苦笑いしたり、とにかく書くだけなのにめっちゃくちゃ楽しんでたんですよ。埋まるスケジュールがすごく嬉しかった。

 

だから修正テープで真っ白になった虚しいページが増えるところをとどまらないと悟ったときに、「現場用」に使っていたのと同じ色のフリクションを購入しました。

 

大学の予定とか結構流動的なのでそっちは既にフリクションだったんですけど、私にとって「不動」だった現場もいつ消えるか分からないものになってしまったので。

 

 

 

感染拡大がある程度収束しても元の世界には戻らない、教授がそう言っていました。

崖っぷちのエンターテインメント、そのギリギリの代替策として乱立するコンテンツや個人の配信。

以前推し活にいそしんでいたのと同じ熱量でこれらを楽しめない自分は、ファン失格かなと凹む日々です。

劇場空間のように相互交流もなければ「こちらに制約がほとんどない」「いつでも観られる」というのが私にとっては致命的な呪いなのかもしれません。

 

 

 

憂いなく楽しめる日が早く来ますように、舞台の上でのびのび生きる推しさんを心置きなく観られる日が訪れますように。

祈るばかりの私が燃え尽きるほうが先かもしれませんが、はてさて。

 

 

 

 

 

 

 

 

余談。

このエントリを下書きで寝かせている間にまたひとつ動きがありました。

販売済み分をすべて払い戻し→座席数を減らし再販売、だそうで。

地方公演も決行らしいので座組の背負うリスクを思うと胃が縮む思いですが、初日の倍率はすさまじいでしょうね。取れたら2月以来の推しさんです。